【分断をこえてゆけ 有機と慣行の向こう側】第2回「寂しい陰謀論と『信念の残響』」

第2回「寂しい陰謀論と『信念の残響』」
■中傷する人の世界観

種苗法改正の反対論につっこみを入れたり、オーガニックコミュニティーに批判的なことを言い始めてから、少ないながらもいわゆる「誹謗中傷」のようなものが耳に入るようになった。もっと落ち込むだろうなと身構えていたのだが、なぜか少し新鮮な気持ちもある。

聞こえないだけで陰で言われている分もあると思うが、表立って届いたのは例えば「農水省とズブズブの人間だから種苗法改正に賛成して、周囲を洗脳しようとしている」という匿名のメール。春に農水省から知的財産課の担当者を招いて種苗法改正のトークライブを企画したことがあるので、それが気に障ったのだろうと思う。

法律の改正案の話でわからないことがあったので、まずは改正案を手掛ける当人に話を聞いてみようと考えたのだが、それってそんなにおかしなことだろうか。もちろん頼まれたわけでもないし、金銭のやりとりも一切ない。

もうひとつは「わざと食の安全を壊すような活動をして、その後にビジネスチャンスを狙っているのだろう。そうでもなければオーガニックに関わる人間がこんなことを言うはずがない」というもの。

見ての通り、両者に共通しているのは「裏で利益を得ている(得ようとしている)に違いない」という憶測だ。どうにか自分の理解の範疇に収めたい、収まってほしいという願望が透けて見える。

彼らからしたら、<多様性豊かな、持続可能で公正な社会>をつくる側に立つはずの人間が、同じ口で種苗法改正に賛成したりオーガニックを批判するなど、あってはならないのだ。だから、裏に暗い欲望や利益が隠されているに違いないと、他者を自分の理解可能な世界観の内側に閉じ込めてしまう。

そういう陰謀論は、想像上の巨悪に依存して世界を単純化することで、一時的に心の安定をもたらすのかもしれないが、嵌まれば嵌まる程に見える景色は貧しくなっていくのではないだろうか。なんというか、便利で寂しいツールだと思う。

■信念の残響

先日聴いていたラジオで、「ビリーフエコー(belief echoes)」という社会心理学の用語を知った。まだ定訳がないとしながらも、ひとまず「信念の残響」と訳して紹介されていた。

「一度デマを信じてしまうと、後からそれが間違いだったと判明した後も、最初に生じた負の感情は消えずに本人の内側で『残響』し続ける」という現象を指す。

強い感情が残っている限り、それを正当化するための情報を無理やりでも拾い集めてつなぎ合わせてしまうため、デマは少しずつ形を変えながら再生産され続ける。その情動の前に、無味乾燥なファクトはまるで無力だ。

では、とにかく大声で嘘を言い続けたものや「信念の残響」を先手で撒き散らしたもの勝ちになってしまうのだろうか。それではあまりに希望がない。なんとか力になれないだろうか、と思う。

第1回のコラム「人を傷つけないオーガニック」を読んだ複数の友人知人から、口を揃えて「茨の道ですね」と言われた。この裏に何かおいしい利益が隠れているというなら、よろこんで拾いに行くから教えてほしい。

■私は思いあがっていた

誤解のないように言うと、デマや陰謀論に嵌まる人々を下に見るつもりはない。むしろ僕自身が「散々ダマされてきた側」を自負しているからだ。ここには到底書けないような手痛い失敗も、一度二度ではない。「信念の残響」だって、ものすごく身に覚えがある。

いま嵌まらずに済んでいるのは、運が良かったから、としか言えない。人に恵まれていたのだろう。強く印象に残っているのは、ある同年代の有機農家の言葉だ。

当時20代で、女性ひとりで新規就農し、今でいう農福連携の先駆けのような取り組みもしていた彼女の姿はメディアでも度々取り上げられ、先進的で新しい農家像として華やかに描かれていた。

そんな時期が過ぎてしばらくのち、久しぶりに畑に遊びに行ったとき、彼女が軽トラを運転しながらぽつりと話してくれたことがある。

<以前は心のどこかで、有機農家の自分は他の農家とは違うという意識があった。循環型農業を選んだ自分は、慣行農家よりも進んでいるのだ、と。

しかし、同世代の農家と仲良くなり交流が深まるにつれて、それがひどい思い上がりだったと気づくようになり、恥ずかしくなった。彼らは皆、本当に努力して勉強をして、高い志を持って、その上で慣行農業を選択し、安全で美味しい野菜作りを追求している。

だから私は彼らのことを心から尊敬しているし、会うたびにたくさんの刺激と学びをもらっている。農法で上下をつけることに意味はなく、垣根をこえて高め合っていける関係を築いていきたい。>

今にして思えば、当時はむしろオーガニックを無邪気に信奉していた僕を、農業の現場からたしなめるような意味も込めていたのかもしれない。

「有機だから安全で美味しい」「農薬は微量でも危険」そんなステレオタイプな言い切りにモヤっとするようになったのは、その辺りからだ。

でも、あのとき彼女が話してくれたことを、仮にネット上のテキストで読んだところで、当時の自分が変わっただろうか、とも思う。軽トラの隣席でそれを話してくれた友人の存在を、あらためてありがたく感じている。

■否定でも現状追認でもなく

慣行農業を否定しないということは決して、単に消極的な現状追認を意味しないし、逆にそうであってはならない。気候危機もマイクロプラスチックも、土壌の劣化や森林の消失も、未来に残せない喫緊の課題だと思う。足元からできることは始めるべきだし、たくさんのイノベーションや、マインドセットの変更が必要になる。

でも、だからこそ「農薬や化学肥料は全てアウト」みたいな思考って雑すぎませんかね、とも思う。「汚い」と設定したものを排除すればうまくいくはず、世界が浄化されるはず、ってとても危うい。人類は、それで散々痛い目にあってきたのでは。どうしてそれで、人の心がついてくるって思えるのだろう。

日本で言えば、有機農業の耕作面積は全農地の0.5%しかない。しかも直近10年近くで0.1%しか伸びていない。(※)残りの99.5%を頭ごなしに否定してかかることが、気候危機の最短の解決につながるだろうか。本当に火急であれば、99.5%の側が経営を持続させながら環境負荷を低減できる手を探った方が、よほど近道ではと考えるのは、おかしいだろうか。

必要なのは、変わってほしい相手に心を開いてもらえるような対話や傾聴だ。農家が農薬を使うのは、バカだからでも悪に支配されているからでもない。シンプルすぎる結論を思考停止の言い訳にしてはいけない。


※参考文献
農林水産省 有機農業をめぐる事情 令和2(2020)年9月


◆筆者

間宮俊賢

◆プロフィール

1977年生・神奈川県出身。2001年頃より地域通貨のマーケットやイベントを企画。2002年、エクアドルを訪れた際に森林と共生する農法や現地の地域通貨に触れ影響を受け、2006年より東京・国分寺「カフェスロー」店長、マネージャーを務める。在職中にはカフェの運営に加え、在来作物がテーマのイベント「たねと食のおいしい祭」をはじめ多数の企画やブッキングを担当。国分寺の地域通貨「ぶんじ」立ち上げに参画。2017年カフェスローを退職し、その後は「次代の農と食をつくる会」「有機農業の日」「たびくるマルシェ」「雲仙たねのちいさな野菜市」等の運営や、各種企画に従事。制作を担当するメルマガ「OVJ headline」では毎月100本以上のオーガニック関連ニュースをキュレーションして発信中。

※記事内容は個人の見解であり、上記の各団体や企業とは一切無関係です。

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